内的テレクラを利用する内的テレクラユーザーのゆくえ

内的テレクラを利用する内的テレクラユーザーのゆくえ

「テレクラがある」ということを考えていると、「テレクラという存在を存在たらしめている最上位の存在」、これ以上は先がないといえるような根源的かつ窮極的な存在、彼方にいる絶対的な一者、無のことなどをどうしても考えずにはいられません。

「テレクラは神が創造したのだ」などというと、「何を馬鹿げたことを言い出すのだ」と言われるかもしれませんが、およそこの世のなかに「神によって創造されていないもの」が一つもない以上、「テレクラもまた神が創造したのだ」といっても、それほど言い過ぎではないのではないかと思われます。

もちろん、これは神などという言葉を使うことに大きな問題があるのだということは理解しております。セム的一神教と馴染みがない本国において、神などという強烈かつ誤解にまみれた言葉を持ち出すことの難しさを考えるならば、「テレクラは神が創造した」などという言葉を安易に吐くべきではないのかもいれません。

しかし、私はあえて、テレクラというものは神が創造したのだと言いたいのですし、より踏み込むのであれば、「神が顕在化するときに解き放った全宇宙を包括するエネルギーのなかにテレクラと名づけられる可能性があるものが含まれていたのだ」とも言いたいのです。

そして、「テレクラというものは存在することそれ自体によって即座に神を賛美し、自分を存在たらしめている神におそれながらおののいている」と、このように遠慮なく続けてしまいたいとさえ考えているのであります。

当然ながら、テレクラを利用する人間であるわれわれ「テレクラユーザー」といわれる存在もまた、テレクラと同様に「神によって創造されたテレクラユーザー」なのであって、およそテレクラユーザーと呼ばれることになる誰一人として、その例外ではありません。

テレクラユーザーというのは、「テレクラユーザーという存在者を存在者たらしめる存在」であるところの神に対して、テレクラと同様に「存在すること」を通してそのままダイレクトに賛美しているわけです。

もちろん、多くのテレクラユーザーは、このようなことに気づかないまま(気づく必要もないのだ、といえばそれまでですが……)、テレクラを利用する主体としてそれぞれに「自由」という錯覚のもと生きており、即アポなり即ハメなりテレフォンセックスなり、「性的な業(蓄積する行為としてのカルマ)」を積み重ねながら、「テレクラは人間が作り出したものなのだ」と疑いもなく考えているに違いありません(そんなことは少しも考えない、というテレクラユーザーが大多数であることは、ある程度は理解しているつもりでいます)。

テレクラというものは、それがノーマルなテレクラであろうが、SMなどの変態プレイを楽しむアブノーマルテレクラであろうが、テレフォンセックス専門のテレクラであろうが、ことごとくすべてが「被造物」であり、「絶対無としての神の存在エネルギーの顕れが、名づけられることで分割したもの」としては同じものであるということができます。

テレクラ、アブノーマルテレクラ、テレフォンセックス専用テレクラ、店舗型テレクラ、無店舗型テレクラと、パッと思いつくだけでもテレクラは様々な「名前」によって分割されていることがわかりますが、これらを識別するための境界線は「名前」によって区切られているのであって、そう名づけられるまえは、テレクラ、アブノーマルテレクラ、テレフォンセックス専用テレクラ、店舗型テレクラ、無店舗型テレクラの間に区別はなく、どろどろとした意味可能性の流動体として無分割の状態で宇宙空間のなかでひっそりとしていたのであります。

現在、テレクラがあるということは、テレクラという言葉によって、混沌が分割されているというだけのことで、テレクラという言葉が使われなくなったならば、テレクラはかつて自分がそうであったような「テレクラ以前」の領域に戻り、ふたたび言葉による分割を待つ意味的流動体として境界線を喪失して混沌のなかに帰ることになるのです。

これに関しては、テレクラユーザーのほうがわかりやすいかもしれません。テレクラユーザーというのは、テレクラという言葉の区切りがあることで、「テレクラを使わない人」から「テレクラユーザー」に分割されることになります。

しかし、「テレクラユーザー」という言葉による区切りがなくなり、境界線が消滅したならば、「テレクラを使わない人」と「テレクラユーザー」の区別はつかなくなり、ひとまずは「人」にまで戻ることになるでしょう。

テレクラユーザーというのは、「出会い目的のテレクラユーザー」と「テレフォンセックス目的のテレクラユーザー」に分かれますが、これもまた、言葉による分割が引き起こした区別でしかなく、こういった区別を可能にする言葉の境界線が曖昧になり、さらには取り払われることになるならば、「出会い目的のテレクラユーザー」と「テレフォンセックス目的のテレクラユーザー」は、「テレクラユーザー」という地点まで戻り、さらに、「テレクラユーザー」と「テレクラを使わない人」の境界線が取り払われたならば、「人」になるのですし、「人」というものを区切る境界線が取り払われたならば、とこのように、どこまでも遡行していくことになるのです。

こうして、あらゆる境界線をとりはらい「テレクラ以前」から出発した思考がやがて「言葉(による分割)以前」に接近していくに従って、テレクラ、および、テレクラユーザーという「なづけられたものたち」は、次第に「なづけえぬもの」になることによって、自分たちを存在者たらしめている存在であるところの神へと接近していくことになるのです。

私達のツーショットダイヤルの回線はどこに繋がっているのかという自覚

もちろん、テレクラという領域にとどまり、自分自身をテレクラユーザーであると規定し、明確な境界線を持ち続ける限り、こういった、一切を生み出した一者へ接近するということは絶対に起こりえません。

そこで起こるのはただひたすらに知覚的で感覚的な現象ばかりであり、具体的には「出会いからの即ハメ」あるいは「回線越しのテレフォンセックス」というような、五感を刺激する形での現世的快楽の細部ばかりが、テレクラユーザーのまえにあらわれることになるでしょう。

この快楽だけを「現実」だと思いこむ限り、テレクラユーザーは「テレクラ以前」「テレクラユーザー以前」の始原に向かって境界線を融解させていくというようなプロセスを開始することはおそらくないでしょう。実際に、そういったプロセスを開始しているテレクラユーザーというのは、ほとんどゼロに近いはずです。

しかし、極稀に、「出会いからの即ハメ」や「回線越しのテレフォンセックス」などの快楽を通して、ある種の神秘体験ともいえる「自我消滅状態」に陥るテレクラユーザーというのが存在し、そういったテレクラユーザーは、その「自我消滅状態」のさなかで、「自分はテレクラユーザーである」という境界線を見失い、「テレクラユーザー以前」「テレクラ以前」「言葉以前」の領域へと足を踏み込み、テレクラと自分とテレクラを通して出会った異性とラブホテルの様々な備品とラブホテルの窓と窓越しの光の区別の一切が消滅し、全面的な合一のなかに身を投げ込まれることになるのです。

こういった体験を一度でも持ってしまったテレクラユーザーというのは、テレクラというものを通してテレクラという言葉の意味を解体し、その深層にある意味にまで到達し、その途方もない広がりと深まりのなかで、「自分というテレクラユーザーをテレクラユーザーたらしめている存在」「テレクラをテレクラたらしめている存在」の濃厚な気配を感じ取ることになります。

この存在の気配を感受する瞬間の自我消失の感覚は、知覚的感覚的なものからもたらされる地上の快楽とは別種の恍惚をテレクラユーザー(その恍惚状態にあるとき、その人はすでにテレクラユーザーと名付けられた状態から脱しているのですが)に与えます。

それは、あくまでたとえとしての言葉でしかありませんが、神との無媒介的即ハメであり、一人の人間が神と対峙するかたちでつながるツーショットダイヤルであり、言葉以前の言葉である神が肉体ではない耳に囁きかける内的テレフォンセックスの体験であるということができるでしょう。

このような体験を持ってしまったテレクラユーザーというのは、地上的な意味でしかないテレクラ、テレクラユーザー、即ハメ、テレフォンセックスから離れ、自分自身の内面を観照することによってあらわれてくる神とのツーショットダイヤルの回線を繋ぐための内的テレクラの探求を開始することになります。

ちなみに、私はその内的テレクラの探求を開始し、神とのツーショットダイヤルのための回線を見出す途上にある内的テレクラユーザーであり、すでに、名づけられて分割された現実にあるテレクラを使う現実的な意味でのテレクラユーザーではなくなっています。

内的テレクラを利用する内的テレクラユーザーにおいては、「出会い」も「ツーショットダイヤル」も「即アポ」も「即ハメ」も「テレフォンセックス」もすべてが意味の深まりと広がりにおいて、現実的テレクラユーザーがその言葉を利用するときのそれとは違ってしまっているために、「同じ言葉を使っていながら意思疎通ができない」という状態にならざるをえません。

そしてまた、内的テレクラを利用する内的テレクラユーザーというのは、そういった言葉の意味の深まりと広がりの果てで、いよいよ、意味それ自体が喪失し、言葉と言葉の区別がつかなくなる無分割地点を目指すことにもなるわけです。

私がそのような内的テレクラユーザーになってしまった以上、現実のテレクラの細々とした事象を扱うこのテレクラタウンにおいて書けること、伝えられることはもはや何一つありません。

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