高齢テレクラユーザーとの共存の道を探る難しさと意義

高齢テレクラユーザーとの共存の道を探る難しさと意義

前回の記事ではテレクラ超高齢化社会問題を扱い、通常の「高齢」とは違うテレクラにおける「高齢」の基準や、現在のテレクラが置かれている超高齢化の進行具合やその状況について簡単に触れました。

要約するならば、前回の記事は、現代社会における「高齢」の基準からすると少しはやい「高齢」である「四十代後半以降」のテレクラユーザーが、テレクラ利用人口の75%近くを占めるテレクラ超高齢社会の到来が間近に迫っているということ、そして、そのテレクラ超高齢社会においては「いかにしてテレクラ超高齢化社会を防ぐか」ではなく「いかにしてテレクラ超高齢化社会を生きなければならないか」を考える必要がある、という「現状認識」と「問題提起」の段階で終わりました。

提出されたのは「テレクラ超高齢化社会のなかで、高齢者といかにして共存し、お互いの幸福を探っていかなければならないのか」という新たな問題です。

このテレクラにまつわる新たな問題は、そう簡単に回答を出せるようなものではなく、これからのテレクラユーザー(高齢テレクラユーザーと若年テレクラユーザーの双方)が、実際に超高齢化したテレクラの利用を通してリアルタイムでそれぞれに見出していき、実践していくなかで、その回答となりうる考えがつかめるかどうかが決まってくるようなものですから、結論を出しきれない微妙な部分を多く含んでいます。

私は「高齢テレクラユーザーとの共存の可能性を探る」という方向性での解決案を頼りなく差し出していますが、テレクラユーザーのなかには「高齢テレクラユーザーの徹底的排除」を訴える者もいて、こちらの意見が「正しい」とも言えず、同時に、そちらの意見を一概に「間違っている」といえないような、やや難しい状態にあります。

というのも、「高齢テレクラユーザーの徹底的排除」という意見が出る背景には、「高齢テレクラユーザーから被った実害」というものがあり、それを単なる「高齢テレクラユーザーへのいわれもない嫌悪や憎悪」という風に片付けることはできないのです。

実際、私自身も「共存の可能性を探る」という立場を粉々に打ち砕かれる感覚を味わうような高齢テレクラユーザーとのやり取りを経験したことがあり、そのような経験の直後は「高齢テレクラユーザー完全排除の意見もむべなるかな」という感想を抱くことを避けることができません。

とはいえ、いまやテレクラの半数以上を占めているのが高齢テレクラユーザーであることを考えると、「排除」という考え方で臨む限り、「むしろ、排除されるべきは若年テレクラユーザーだ」という反論を受けることになりかねません。

こういった土俵のうえでお互いに反目しあって対立することは、正直なところ「不毛」であるとしか言いようがありません。

「高齢テレクラユーザーはもちろん、若年テレクラユーザーも満足して利用できるテレクラ」というのは現実が見えていない理想論者が掲げるユートピアのようなものでしかないのかもしれませんが、それを目指すこと、それ自体に意味があるように私には感じられます。

テレクラ内部の幸福度を変えることはまだ可能かもしれない

加齢とともに気難しくなって会話が通用しなくなる高齢テレクラユーザーとのトラブルの報告は絶えることはありません。

海外の高齢者と比較して日本の高齢者は加齢とともに幸福度を下げていく傾向があり、それにより常時不機嫌であったり融通がきかなかったりしますが、この傾向は、高齢テレクラユーザーにおいても同様に見られるあまり芳しくない傾向です。

しかし、ことテレクラの高齢ユーザーに関しては、この幸福度を少しだけでもあげてやることができるのではないか、そして、その方法を探ることによって「共存」のいとぐちが見えてくるのではないか、というのが私の考えです。

これはあまりに楽観的な見方かもしれませんが、社会全体の幸福度を変えることよりも、テレクラ内部での限られた領域での幸福度を変えるほうがいくらか容易であり、実現可能でさえあるものではないでしょうか。

高齢テレクラユーザーの抱えている問題は複雑であり、するすると結び目をほどくことができないようなものを多く抱え込んでいますが、「途方もない退屈」「話し相手がいない孤立」「馬齢を重ねて膨れ上がった自尊心」などが「怒り」や「不満」や「不安」に繋がっているということは、ひとまず指摘できることだと思います。

高齢テレクラユーザーを「排除」という方法で扱おうとしますと、「怒り」や「不満」や「不安」の原因となっている「退屈」や「孤立」や「自尊心」を悪い意味で刺激することになり、トラブルの火種にしかならないでしょう。

高齢テレクラユーザーとの「共存」の可能性を探るためには、なぜ高齢テレクラユーザーが怒っているのか、なぜ高齢テレクラユーザーが不満をいだいているのか、なぜ高齢テレクラユーザーはたえず不安を抱えているのかということを想像しながら、「退屈」を埋めてやり、「孤立」から救い、「自尊心」のガス抜きをしてやる必要があります。

かといって、それは「高齢テレクラユーザーの横暴を何でもかんでも許せばいい」というようなやり方で解決するものではないのですし、そういったやり方は「投げやり」でしかないでしょう。

何も考えずに出会いやテレフォンセックスに興じることができた初期のテレクラのころには考えられなかったような諸問題の勃発を前にして、それを無視するのではなく自分の当事者の問題として引き受けながらテレクラを使わなければならない、というのは、移りゆく時代のなかでたえず自分を更新しなければならない私たちの宿命というものです。

時代の変化とともに自分を更新し、新しい時代に対応した生き方を探っていかなければならないのは若年テレクラユーザーだけではありません。高齢テレクラユーザーもまたそうなのであり、高齢テレクラユーザーからの歩み寄りも必要なのだということは、あらためて言うまでもないことでしょう。

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