テレクラにまつわる言説、あるいは女性について

テレクラにまつわる言説、あるいは女性について

「テレクラについての言葉が語られる」ことによって、「テレクラにたえず新規女性の参入がある状況」が望めるかどうかは「わからない」が、少なくとも「テレクラについての言葉が語られている状況」に「テレクラの状況」を変えていくことだけはできる。

前回の記事では、テレクラについての言葉がテレクラユーザー個々人によって語られていくことの重要性を考えていくにあたって、無店舗型テレクラの初期と現在の状況に違いについて、あらためて、おおまかに触れることになりました。

「テレクラ」という言葉が多くの人の目に触れるようになれば、それまでまったく「テレクラ」を知らなかった女性が、もしかすると「テレクラの新規女性」になってくれる。そんな可能性がわずかに孕まれることになるかもしれません。

その小さな可能性のために、「テレクラ」は、まずは「テレクラについての言葉が語られている状況」という小さな変化を経験する必要があるのではないか、と私は考えています。

今回は、「テレクラについての言葉が語られる」という数少ない場面において、これまで、その「言葉」がどのような傾向を持っていたかを反省的に見ていきながら、今後、テレクラのためにどのような言葉が期待されるか、ということを自戒を込めて少しでも探っていければと思っております。

さて、これまで私が書いてきた文章も含めて、テレクラに関する文章というものは、基本的には「男性」に向けて書かれているものが多いというのが現状です。もしかすると、「女性」に向けて書かれたテレクラのテキストというのはほとんどない、あるいは絶無だ、と言いきってもいいかもしれません。

「テレクラを利用するためのテクニック」といったノウハウや攻略法の開示にせよ、「テレクラを使ってみたらいい女とセックスできた!」というようなテレクラの体験談にせよ、それらはすべて男性に向けられた言葉でしかありません。

もちろん、「新規の女性ユーザーを獲得する」という目的のための考察として、「テレクラについて書くこと、話すこと」について書いている私のこの一連の文章も、その例外ではありません。

当たり前の話ですが、「男性にとってのテレクラ」の言葉を書き連ねている限り、その言葉は、テレクラを利用しようと考えている、あるいはすでに利用している男性にしか届かないのであって、「新規の女性」になりうる素人女性の眼に触れることはまずないと考えてよいでしょう。「男性」に向けたテレクラの文章は、閉鎖的であって性別を超えた広がりを持ちにくい、という欠点を持っているでしょう。

「今後のテレクラの課題」という出発地点からはじまった思考を通して、「テレクラに関しては、男性に向けたテキストしか書かれていない」というテレクラにまつわる言葉についての現状が見えてきたとき、正直なところ、私は愕然とすることになりました。

その「愕然」のなかには、「女性に向けたテレクラの文章」というヴィジョンが、自分にもまるで見えない、という途方に暮れる感覚も含まれていました。

また、「女性」に向けられたテレクラについての言葉を仮に見つけ出したとして、それを、いったいどこに向けて放てばよいのか、ということさえも茫としており、愕然を強めていきます。

男性本位のテレクラ言説の限界

男性に向けられた男性本位のテキストばかりが充実していき、女性の立場に立った言説、テレクラを利用する女性からの言葉、女性をテレクラに強く惹きつけるようなテキストは存在していない。あるいは、それらの言葉は黙殺されてきたのではないか。

テレクラについて語られる言説において「男性と女性は断絶している」といわざるをえません。いや、テレクラを成立させてくれている「女性」という存在は、むしろ、テレクラ言説の中でないがしろにされてきたといってもいいのかもしれません。

テレクラについての言説が抱える課題は、「テレクラ女性史」ともいえる女性主体の言説の不在や抑圧をどのように受け入れていくか、ということになるようにも思われます。

女性主体のテレクラ言説、あるいは女性のためのテレクラ言説は、女性の新規ユーザーの獲得などという「男性にとってありがたい結果」を呼び起こすのではなくて、もしかすると、男性本位のものとして利用されてきたテレクラを根底から破壊しつくし糾弾するような性質を持つことになるのかもしれません。

しかし、それでもしテレクラが滅びるのだとすれば、それが、テレクラという男性本位な出会いツールの限界だった、所詮、テレクラなどその程度のものだった、ということでしょう。

個人的には、女性に向けられたテレクラの言説、女性主体のテレクラの言説が登場することによって、「男性と女性が共生する場所としてのテレクラ」という可能性が開かれることを期待するのですが、こればかりは、女性主体のテレクラの言説が登場していない現在、どのように転ぶかを、私が予言することはできません。

話が少々先走りましたので、「女性主体のテレクラ言説」は新たな課題として温めることにして、出発点である「テレクラを利用する男性がテレクラについて書く」という場所にひとまず戻りましょう。

テレクラを利用する男性が書いてきた文章、テレクラにまつわる言説は、これまで「女性」と「出会う」ことを避けてきました。あるいは、「女性」という存在を相手にしながら、その眼の前の「女性」を見ないようにしてきた、といえるかもしれません。

男性によって語られるテレクラ言説の当面の課題は、「女性」を発見すること、そして、書かれたテキストが女性と「出会う」ための言葉を探ること、ということになるように思われます。

男性は、肉体的には「男性」という「性」を持つことになるのですし、その「性」から思考を開始します。この「男性」という「性」から逃れることは非常に難しい、完全にそこから解放されるのはほとんど不可能であるといってもいいでしょう。となると、男性によって書かれるテレクラ言説は、永遠に女性との「出会い」がない、ということになるのでしょうか。

もしかすると、そうなのかもしれません。しかし、私としては、「いや、そうではない」とわずかな抵抗をしめしたいとも思います。

「人は待つことによって女性化する」という言葉があります。あるいは「女に生まれるのではなく、女になるのだ」というような言葉を思い返してもいいでしょう。人は、「性器的な性」とは別の「性別」を持っています。それらの「性器的な性」ではない「性別」に、人は、様々な手段によってなることができる。

それは、引用したような「待つこと」によって起こることでもありますし、本を読むことや映画を見るといったフィクションに触れることによって起こることでもあります。ここに、めちゃくちゃかもしれませんが、「テレクラを利用すること」というものも、私は加えてみたいと考えております。

テレクラを利用することを通して「女性化」していく、あるいは、テレクラについての文章を男性が書くことによって「女性化」していく。そのような地点から、性器的な意味での男性によって語られたテレクラにまつわる言説が、性器的な意味ではない「女性」の言葉となり、性器的な意味で女性とされている「女性」の、性器的ではない「女性」と出会う。

私は、そのような「出会い」の可能性を、テレクラを通して信じてみたいのです。

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