テレクラにおいて肯定的な言説は可能か

テレクラにおいて肯定的な言説は可能か

今後、テレクラには、テレクラを利用する男性、女性の双方からの「肯定的」な言説が必要とされます。

ところが、そのような必要があるにも関わらず、現在、テレクラについて語られている言葉というのは非常に貧しい状況にあると言わざるを得ません。

この貧しい状況に関しては、改善のビジョンも見えにくく、今後、ますます貧しくなっていくことが予想されます。

テレクラについての言葉の貧しさは、ひとつは、男性側から届けられるテレクラ言説というものが、基本的に男性本位のものであり、テレクラ女性に対する想像力や配慮などをごっそり欠いているご都合主義から導き出されています。

男性向けに語られるテレクラの言葉というのは、「テレクラ」の現状から眼を背けた「素晴らしさ」を喧伝するために書かれているために、一見すると「肯定的」なテレクラ言説に見えるのですが、それらの言葉は、実は「装われた肯定」でしかありません。

テレクラの「失敗体験談」などは、これらの「装われた肯定」でしかない言説によってテレクラを利用することになったテレクラユーザーの男性が、「テレクラの現実」を、テレクラ利用を通して実感した結果、「装われた肯定」によって語られていた「テレクラ」というものが「嘘」であった、ということに気付かされた「幻滅」によって書かれていると考えて良いでしょう。

テレクラを使えばタダでセックスができる、テレクラを使えばセフレが簡単に作れる、テレクラには若くて美しい女性がたくさん参入している、というような「甘い言葉」、「装われた肯定」でしかない「テレクラ賛美」をテレクラユーザーになる男性がもし信じてしまった場合、テレクラ男性の前に立ちはだかる「テレクラの現実」は、都合のよいテレクラ言説とはまるで違う耐え難いものに感じられるでしょう。

たとえば「テレクラを使えばタダでセックスができる」というような「装われた肯定」と、それへの期待は、テレクラを利用すれば必ず繋がることになる、テレクラ女性ユーザーの大半を占める「金銭援助系女性」との回線という「テレクラの現実」によって早い段階で粉々に打ち砕かれることになります。

「テレクラには若くて美しい女性がたくさん参入している」というような「装われた肯定」の場合、高年齢化が進行しているテレクラで繋がりやすい「高齢テレクラ女性」との回線や、「肥満女性/怪物系女性」と男性たちに判断されて忌避されることになるテレクラ女性との回線によってことごとく裏切られることになります。

その結果、テレクラ男性から「テレクラについて書かれていることは嘘ばかりである。テレクラは、金を払わないとセックスさせてくれない女ばかりだ。あるいは、万に一つ素人女性とセックスできたとしても、それらの女は若くも美しくもないのだ」という体験談が多く寄せられるようになり、テレクラに関する「否定的」な言葉がひっきりなしに飛び交うことになります。

つまり、テレクラ男性を期待で煽る「装われた肯定」は、結果としては、テレクラの「否定的言説」を広げることに加担しています。

もちろん、非常に厄介なことに、「装われた肯定」から目覚めたテレクラ男性による「否定的」なテレクラ言説というのは、「テレクラの現実」を正確に見据えている言葉でもあるわけです。

「テレクラの現実」を直視する限りにおいて、テレクラを利用する男性が「装われた肯定」ではない真の「肯定的な言説」をテレクラから導き出すことは非常に難しい。このような実にもどかしい問題がテレクラには横たわっています。

「肯定」は「装われたもの」でしかなく、「テレクラの現実」を見据える限りにおいては「否定的」にならざるをえない。そして、それらの「否定的な言葉」は「テレクラ女性」を傷つけるものでもある。男性側の言葉が貧しいものになっている原因や、その貧しさの背景というのは、おおよそ、このようなものであると考えて良いでしょう。

女性の側からの「否定的/肯定的」なテレクラ言説については、前回の記事でおおまかに触れましたが、女性側からの「否定的」なテレクラ言説は、「装われた肯定」に導かれてテレクラを利用しはじめたであろうヤリ目的のテレクラ男性によって蔑ろにされ虐げられた体験談として記述される傾向があります。

また、「テレクラの現実」を知ったテレクラ男性による「否定的言説」によって、テレクラ女性は「テレクラの現実」としての「自分」を読むことになり、テレクラ男性によって二度傷つけられることになるのですが、それらの二度目の「否定」に対して、テレクラ女性からの返答として、改めて「否定的言説」が書かれることにもなります。これもまた、女性の眼から眺められた「テレクラの現実」についての言葉であるわけです。

女性側からの「テレクラの現実」を見据える言説というのは、それがテレクラ男性を厳しく批判するものであるということと、女性側からの言葉であるということもあって、テレクラ男性側から黙殺されてきた、という側面もあります。

今後のテレクラにおいて、「テレクラ」という言葉を流通させていくにあたっては、「テレクラ」にまつわる「肯定的な言説」が必要なのですが、その「肯定的な言説」は、「テレクラの現実」を直視した上で導き出された言葉でなければなりません。

しかし、「テレクラの現実」を見据えた上で「装われた肯定」ではない「肯定」となるような言葉を導き出すのは非常に難しい、ともすると、ほとんど無理なのではないか、と思われます。もしかすると、テレクラにまつわる「肯定的な言説」というものは、男性/女性の双方から出ることがないのかもしれません。

「テレクラ」という言葉が流通することによって「テレクラの状況」が変化するのではないか、という地点から始められた考察は、袋小路に入り込むことになったのでしょうか。おそらくは、そうなのでしょう。

テレクラ男性がテレクラ女性を攻撃し、テレクラ女性はテレクラ男性たちに復讐をする。このような言葉が飛び交っているきわめて貧しい状況が続く限り、テレクラに関する未来は、非常に「暗い」ものとしてしか思い浮かべることしかできません。

しかし、「暗さ」を全面的に受け止めるところからしか、何も考え始めることはできない、やり直すことができないのではないかと私には思われます。

テレクラを貧しくするセックス

現在のテレクラの「暗い」状況を作り上げたのは、テレクラにまつわる言葉の「貧しさ」です。飛躍に感じられるかもしれませんが、その「貧しさ」の原因となっているのは、おそらく「セックス」です。

テレクラを利用している女性は、テレクラを利用している男性と違って、金銭的な援助でもって生活を組み立てている「軍人」と呼ばれるような女性をのぞけば、それほど強くセックスを求めていないのではないか、と私には思われます。テレクラを利用する「援助」目的ではない女性は、「精神的な充足」を求めている女性のほうが多いでしょう。

高齢であるという年齢的な条件や、身体や精神の諸特徴などで男性から否定される女性たちと違って、「軍人」と呼ばれるような、金銭を媒介にした性行為によって生計を立てているテレクラ女性たちにも多少の問題はあるでしょう。とはいえ、援助女性が支配的な現在のテレクラの利用状況は、「セックス」を目的としてテレクラを利用してきた男性ユーザーによって虐げられてきた女性ユーザーの無意識が反映されている、というふうにも思われてなりません。

テレクラをとりまく貧しい状況というのは、「セックスがしたい」という男性と、「金銭を支払えばセックスをしてもいい」という女性の安直な共犯関係によって進行しています。「セックス」を目的として即物的なリアルに徹しているつもり、上手に遊んでいるつもりの男性と女性の双方によって排除され、追いやられているのは、ロマンティックな感性に他なりません。おそらく、テレクラにいま最も欠如しているのは「恋愛」という高度に知的な感性でしょう。

もし、テレクラユーザーの男女から北村透谷が提唱したような「恋愛至上主義」といえるほどのダイナミックな言説が生まれうるならば、そのとき、テレクラにまつわる言説は、安直な性欲や金銭的打算から解き放たれながら、ついに肯定的な表情を浮かべることになるのではないか、と私は想像します。もちろん、これが安直な考えであることも重々に承知した上でです。

実際、数少ない、テレクラ女性からの「装われた肯定」ではない、真の「肯定」である言葉は、「セックス」によるものではなく、「恋愛」と呼べるかもしれないような感覚をテレクラ男性によって与えられた女性によって証言されているものがほとんどです。

「恋愛」というものは、「男と女がいれば自然に成立する」というような自明で簡単なものではありません。もし、「恋愛」を簡単なものだと思っているとしたら、あまりにも「恋愛」というものを舐めていると言わざるをえません。近年「恋愛」などというものができたことがあるかどうか、簡単にでも思い返してみるとよいでしょう。そこに「交際」や「交尾」の記憶はあったとしても、「恋愛」と呼べるほどの領域に踏み込んでいるものは、ほとんど見いだせないはずです。

男性がとびきりロマンティックな感情を女性に与える(また、その逆も)、ということは、非常に困難な営みであるということをまずは知らなければなりません。以前、テレクラを利用する男性はテレクラ利用を通して「女性化」していくことが重要であるのかもしれない、というような文章を書かせていただきましたが、その文章は、おそらく、この困難な営みと関わりを持つものであると、私は考えています。

「テレクラの現実」を見据えている限り、テレクラに関しては「否定的な言説」や「性」にまつわる言葉しか出てきません。しかし、「テレクラの現実」が男性の行動一つで「書き換えられるもの」だとしたら、どうでしょうか。

「テレクラの現実」というものが、「恋愛」というものを軸にした男女の行為に満ちて「書き換えられた」ならば、その「現実」から導き出されるテレクラの言説は、現在抱えているような袋小路から抜け出すようなきらめきを獲得することになるかもしれません。テレクラの水脈である「暗さ」を見据え、それを徹底的に引き受けるところからはじめるとき、仄暗い性欲の底の暗がりに、そのような光明がわずかに差し込んでくるのではないか、と思われます。

それが可能かどうかはさておき、ひとまず、「テレクラの『現実』を書き換える」という選択肢が見えてきました。これについては、次回以降にあらためて考えていくことにしましょう。

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