テレクラ・ロマンティシズムの方向へ

テレクラ・ロマンティシズムの方向へ

テレクラにまつわる「肯定的な言説」は、「テレクラの現実」を直視した上で導き出された言葉である必要があります。

そうでなければ、その言葉は「装われた肯定」になってしまい、結果的に、それらの「装われた肯定」の言葉に惑わされた男性テレクラユーザーが、幻滅と落胆から、テレクラにまつわる「否定的な言説」を撒き散らすことへと繋がるからです。

しかし、「テレクラの現実」を直視する限りにおいて、「装われた肯定」ではない真の「肯定的な言説」をテレクラから導き出すのは、正直なところ非常に難しい状況にあります。

さらに、テレクラにまつわる「否定的な言説」というものは、厄介かつ悲しいことに、「テレクラの現実」を正確に見据えた上で導き出された言葉でもあるわけです。これが現在のテレクラが抱えている問題であり、「貧しさ」です。

テレクラを利用する男性のほとんどは「セックス」を求めていて、「援助希望」ではないテレクラ女性は「精神的な充足」を求めていることが多い。この利用目的のすれ違い、「きらめき」の欠如は、現在の「テレクラの現実」、テレクラの「貧しさ」を作り上げている大きな原因のうちの一つでしょう。

テレクラにまつわるこのような「暗さ」や「貧しさ」を徹底的に引き受けてみますと、「テレクラ」という言葉を流通させるという当初の営みは、「肯定的な言説」にたどりつくことなく袋小路に入ってしまい、どんどん痩せ細っていくばかりに思われます。

しかし、「テレクラの現実」というものをもし「書き換える」ことができるならばどうでしょうか。「テレクラ」が書き換えられたならば、「テレクラの現実」を見据えた先に出てくる言葉もおのずと変化していくのではないでしょうか。それが書き換えられた「現実」であれば、「テレクラの現実」から「肯定的な言説」を導き出すことも、もしかしたら不可能ではないかもしれません。

そこで、その「テレクラの現実」の「書き換え」のための方法として、一つ考えうるものとして、「恋愛」という困難を導入してみる。そういった理想を提示するところまで、前回の記事では文章を書きすすめることになりました。

「テレクラの現実」を書き換えるにあたっては、やはり、男性側の根本的な態度の変更が必要であるように私には考えられます。では、どのような「新しい態度」が想定されるでしょうか。

テレクラの利用において、「セックス」を主体にした考え方や言動を放棄してみること。「いまテレクラを利用しているあらゆる女性、出会ってしまった女性をひとまず愛してみること。

私が提示する「新しい態度」とは、おそらく、単純化してしまえばこれだけのことになるでしょう。しかし、これは「これだけのこと」であるがゆえに非常に難しいと言わざるをえない態度であるかもしれません。

「セックス」を主体にした考え方や言動を放棄してみることについては、まずは「援助目的でテレクラを利用している女性を買わない」という行動が考えられます。ですが、これはさほど難しいことでもありません。おそらく「セックス」を主要な目的にしているテレクラ男性にとって、より難しいのは「セックスできなそう」と判断したテレクラ女性に対して「優しくすること」でしょう。

出会った相手が、「セックス」という基準で見て、とても受け入れられない女性であるということは、テレクラの利用においてはよくあることです。「とてもセックスできそうにない。陰茎が勃起しそうにない」、そのように判断したテレクラ女性に対して、テレクラ男性は、その男性が思っている以上に「冷たい態度」をとる傾向があります。ぞんざいに扱うこともあれば、ひどい場合は待ち合わせをすっぽかすこともあるでしょう。

私が提唱することになる「新しい態度」というのは、このようなテレクラ女性に対する「冷たい態度」を封印するところから始まります。

テレクラユーザーの男性が、一人の女性をすっぽかしたりぞんざいに扱った場合、それによって、一人の女性からテレクラにまつわる「否定的な言説」が飛び出すことになります。一人の女性ユーザーからの「否定的な言説」は、女性ユーザーをテレクラから遠ざける大きな原因となります。「たった一人の意見で、まさか」などとは考えないほうがいいでしょう。

同時に、すっぽかしたりぞんざいに扱った女性を、男性がさらに罵るような言葉でもって「否定的」に語り直した場合、テレクラにまつわる「否定的な言説」は女性側のもののそれと絡み合う形でますます強化され、女性ユーザーがますます減退していくことになります。

テレクラ女性に対する「冷たい態度」を封印する、ということは、このような「否定的な言説」が女性から出ることを食いとどめるための、最低限の礼節ということになるでしょう。

もちろん、「セックスができない」ということで落胆することを今すぐやめろ、などといっても、それは無理な相談でしょうから、「冷たい態度」の封印は、最初は表面的な「演技」であってもよいでしょう。まずは、相手の女性を尊重するという態度を見せることに慣れていきましょう。そこから、「演じられている態度なのかどうか」が自分でもわからなくなる地点まで演じきってみることが重要です。

最初は「演技」であっても、「冷たい態度」を封印し、出会うことになったテレクラ女性に優しく振る舞うことによって、「セックス」を主体にした考え方や言動も、少しずつ封印されていきます。それらの考え方や言動が封印された地点に、次の段階である「テレクラ女性をひとまず愛してみる」という跳躍のための足場が初めて築かれていくことになります。

テレクラ女性を愛するところからさらに跳躍するために

「セックス」を主軸にした考え方のなかでは、おそらく、テレクラ男性が否定してきた対象というのは、その男性にとって「女性」である以前にそもそも「人間」という認識すらされてこなかったのではないか、と私は考えております。テレクラ男性がまず取り戻さなければならないのは、テレクラを利用する女性が「性の対象」であるよりも先に「女性」であり、「女性」である前に「人間」であるという最低限の認識です。

この程度の最低限の認識を「愛する」などとは言いたくないと個人的には思うのですが、それはさておき、このような認識を獲得することと、態度の変更は、「セックス」を主軸にしたテレクラ男性にとっては大きな変化であるだろうと私は考えます。

テレクラを利用する女性の多くは、この程度の最低限の認識さえも持たれてこなかったのですし、「性の対象」という観点から虐げられてきた女性であるわけです。テレクラを利用する男性にできる最初の一歩は、これらの打ちのめされた女性を存在として受け入れ、優しく、手厚く扱うことです。

それらの言動の一つ一つが、打ちのめされたテレクラ女性を回復させることになるでしょう。このようなことをひとまず「愛する」と呼ぶとして、ここまでが、「誰でもできる」新しい態度の変更です。その上で、私は「恋愛」という、男女がいるからといって自然にできるわけではない、決して自明ではない困難な道への挑戦の領域にまで足を踏み入れることをさらに提案してみたい、と考えております。

テレクラ男性には、テレクラ女性を「人間」として「女性」として受け入れる地点で満足するのではなく、テレクラ女性に身を焦がすような「恋」の感情を与えてほしい、テレクラ女性の性器的な意味ではない「女性」の部分を思い出させてるようなツーショットダイヤルや、出会い後のコミュニケーションをとってほしい、と私は考えています。

あるいは、テレクラ男性が、テレクラ女性に身を焦がすような「片想い」をしながらも、しかし、相手にアプローチをするためには多大な勇気を必要とする、というような、静かに燃え盛る恋情を抱く、というのでもいいと思います。

「テレクラの現実」というものが、テレクラ男性とテレクラ女性同士の「性」ではなく、「恋」というもので書き換えられるとき、「テレクラの現実」について語る言葉は「肯定的な言説」として「きらめき」を放ちはじめることになるでしょう。

テレクラは「セックス」によって貧しくなりました。「セックス」という安っぽく貧しい安直なリアリズムがテレクラから排除してしまったのは、ダイナミックな、ほとんど虚構じみて狂熱的な「恋愛至上主義」ともいえるロマンティシズムに他なりません。

ロマンティシズムというのは馬鹿にされやすいものです。しかし、それがもし馬鹿にされるとしたら、甘ったるい中途半端なロマンティシズムでしかないか、それを馬鹿にする相手が甘ったれたロマンティシズムに触れてばかりいて、徹底的なロマンティシズムが持つ、ほとんど浮世離れした強い力を知らない、それに打ちのめされた経験がないということでしょう。

ところで「恋愛」というのは、それが徹底された状態に自分を持っていくことが非常に難しい営みなのですが、それと同じかそれ以上に、それを「記述」することが非常に難しいものでもあるわけです。その「記述」、自身の「恋愛」に近づこうとしてもがく言葉は、その体験を再現することはできないが、それに辿り着こうとする意志において、圧倒的な「肯定」の力が宿る、と私は考えています。

私は、テレクラを利用する男女それぞれから、そのように困難であるが素晴らしい、徹底的にロマンチックな「恋愛」の記述が多く投稿される「テレクラの現実」を期待しています。

「テレクラの現実」がそのようなものに「書き換えられる」とき、テレクラをめぐる言説はその否定的な表情を潜めて、「テレクラを語る」という行為はどこまでも加速していく肯定の身振りと化すのではないか、と私は考えています。

もちろん、「テレクラ」に限った話ではなく、「恋愛」という恐ろしいものは、おそらくほとんど存在したことがないのですし、それが満足に「記述」されたこともないのですから、そんな困難をテレクラユーザーが達成しうるなどと楽観的に考えることはもちろんできません。われながら、これは途方もない理想論だ、とさえ感じます。

ですが、そうと知りつつも、テレクラというヒステリックな焔のなかから「愛」が誕生する瞬間を目撃する、という可能性に期待している、また、そのような可能性を目指すところからしか「テレクラ」の再起はありえない、と考えている私がいるのは確かです。そのすべては、セックスを捨てて、「テレクラ女性をひとまず愛してみる」という「新しい態度」なしには、おそらく、考えることも、期待することもできないでしょう。

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