千のテレクラ

千のテレクラ

第一次テレクラブームと呼ばれる時期の黎明期のテレクラ、「店舗型テレクラ」しかない時代というのは、テレクラが「大きな物語」を担わされてしまった時代だったと言いあらわすこともできるかもしれません。

社会現象ともなり、その黎明期特有の治外法権的な性質から、各種の耳目を集めるような問題も多発し、テレクラによって引き起こされた様々な出来事は新聞記事などになって世間を騒がし、サブカルチャーとしても認識されていた、ということもあった当時のテレクラという場所は、現在のような「知る人ぞ知る」というものではありませんでした。

テレクラという場所は、80年代中盤以降の日本社会の空気を反映するようなものとして、時代の要請として登場した、というよりも、もしかすると、当時の激変しつつあった「語りにくい社会」を語る上での、時代を表象するサンプルとして、「使いやすい対象」として利用されたという傾向のほうが強かったのかもしれません。

しかし、時代の要請としての登場によって熱気が引き起こされたのか、それとも時代を表象するサンプルとして利用されたことによって熱気が引き起こされてしまったのか、ということに関しては、「どちらが先行していたのか」を断言することができないようにも思われます。

時代の要請としてのテレクラの登場と、「時代の把握のために語られるもの」としてテレクラが社会にピックアップされるということは、おそらくは、ほぼ同時に起こって反響しあっていたのだろうと思いますが、なんにせよ、「テレクラ」という場所が、当時、なにか「熱狂」に近いものを引き起こしたのは事実です。

その「熱狂」は、出会い系などの登場による、第一次テレクラブームの衰退とともに一気に熱を失っていくのですし、「社会を語るためのサンプル」としての利用価値がなくなったあとは、語られることもなくなり、時代の遺物として葬られさえもしました。

無店舗テレクラ以降の展望についてのメモ

無店舗型テレクラは、そのような「大きな物語」としてテレクラが語られる時代の終焉にともなって登場することになりました。

無店舗型テレクラは、「スマートフォンの数だけその場にテレクラを発生させる」という性質から、「範囲」に限っていえば店舗型テレクラの全盛期と同じか、それ以上のユーザーを獲得することにもなりましたが、「それぞれのスマートフォンの数だけ」という無店舗型テレクラの最大の特徴によって、当時のテレクラのような社会的なショックを引き起こすということは起こりませんでした。

こんなことを言い出しますと、「無店舗型テレクラの登場によって、大きな物語が終わったあとの世界で小さな無数の即ハメとテレフォンセックスとが日常生活を織り上げていく小さな物語だけの世界に突入した」などと性急な結論を与えそうにもなるし、実際、そのような傾向も当然ながらあるのですが、どうも、そうとだけは言い切れないようなわずかな違和感も残ります。

第一次テレクラブームの頃の、社会を熱狂させ、「大きな物語」を背負わされた個室テレクラというものも、基本的には無数の「小さな物語」によって充溢していたのですから、「小さな物語」が男女の間で交わされるツーショットダイヤルというのは、何も無店舗型テレクラ以降のテレクラだけが持つ特別な要素ではないように私には思われます。

無店舗型テレクラ登場以降の欲望の多様化、「小さな物語」の自由さとバリエーションの増加に関しては、「大きい物語」という語り方を成立させていたかつてのテレクラの前提を置いた上で、「小さな物語」の集積、全方向へと拡散されるような力の解放でもって、かつて語られた「大きな物語」が捉えようとしていた視座よりもはるかに巨大な物語の領域へとアクセスしていく、どうも、そのような傾向が汲み取れるような手触りがあります。

無店舗テレクラ以降のテレクラという「知る人ぞ知るテレクラ」という「特定の場所」を持たない環境のなかで、個々人の欲望が、それぞれの欲望にあわせて開発される自由自在な語り口によって「小さな物語」として語り始められ、男女が誰にも知られずに密やかに愛しはじめる。

そのとき、テレクラは「社会を語るための都合の良いサンプル」というかつての語られ方では捉えきれないような射程と可能性を持った地平を広げていくのであるし、また「大きな物語」として語られてしまった時代のテレクラから雑にこぼれ落ちてしまったものを改めて繊細に掬いなおしていくことにもなるのではないでしょうか。

「現在のテレクラ」についての大まかな見通しを、私としては、そのように見ている次第でございます。

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